いつだったか、百円ショップで買った割れ物を包むのに引っ張り出した新聞紙、
そこにあったのは、三重県の沿岸部に残る「津波慰霊碑」の記事。
有名なところだと、「宝永地震」「安政地震」そして「昭和東南海地震」
過去、幾度となく大きな地震や津波に襲われてきた三重県沿岸部。
そこに残る「慰霊碑」や「碑文」
子供のころから「大きな地震には津波がつきもの」と教わってはきたけれど、
「慰霊碑」や「碑文」は、あまり気にしてこなかったことに気づきました。
せっかく気づけたこの機会に、それらを辿ってみようと思い立ち、
国土地理院、みえ防災のHPを調べてみました。
地元の人以外に知られることもなく、ひっそりと建つものもあると思うし、
県内に残っているもののすべてをまわれるわけではありませんが、
調査記録として残っていて、場所のはっきりしているところを
私の行動パターン 南から北上する形で、熊野市から回ります。
新鹿町のJA三重南紀新鹿支店前にある
「津浪の記」の碑と、「東南海地震津波水位標」の碑。





JAの建物は、海抜7mに建っています。

津波到達水位が「この碑の頂」ということは、
8mほどの津波だったということでしょうか?
国道311号 里川橋脇にある「東南海大地震の記」の碑。

潮風のせいで痛みがありますが、
昭和19年12月7日 午後1時15分に発生した地震であること
熊野灘海底が震源だったこと・地震の規模がM8.3だったこと
津波による死者行方不明者16名・流失倒壊家屋151戸
浸水家屋は遊木地区ともに百数十戸だったこと
その他、田畑に大きな被害があったことが書かれています。
昭和東南海地震
昭和19年(1944年)12月7日

三重県尾鷲市沖約 20 km (北緯33度8分、東経136度6分)を震源とする
プレート境界型巨大地震。
また、戦時下にあって敗戦が危ぶまれた時期で、
軍部による厳しい情報統制により、被害状況は公表されることなく、
「隠された地震」と言われます。
熊野市遊木町の光明寺境内にある「嘉永の津波供養塔」。




1854年にあった、津波や被害(「安政東海地震」)と教訓が書かれています。
嘉永7年11月4日の地震の時には一丈五尺(約4.5m)の津波だったんですね。


さすがは県南部、年の瀬(12月28日)なのにまだまだ紅葉が盛りです。
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コメント
以前、野外研修会で千葉県の九十九里浜に行った時…
1707年の大津波の碑(千人塚や百人塚)を巡ったことがあります。
掲載されたお写真で巡検ができます。勉強になります。
先人たちの被害を後世に伝えようという気持ちが伝わってきますね。
言葉で聞くよりも、実際に見て海岸からずいぶんと内陸まで被害のあったこともわかりました。
今のように正確な数値はなくても、被害状況を知ることができるいい機会になったと思います。
県南部は、東南海地震で想定されている津波は、
地震発生から逃げる間もなく襲ってくるとされていますよね。
住まれている人は、多かれ少なかれ覚悟を持って生活されているのでしょう。
こういった歴史遺物は、教訓として、しっかりと残していかなければならないでしょうね。
1707年の津波は地震から40分後、1944年の津波は十数分で第一波が到達しているそうです。
避難タワーの整備も進んできて、発生する時間にもよると思いますが、
ある程度教訓が生かされているんじゃないでしょうか。