歴史

地震と津波の記憶を訪ねて 4

昨日はちょっと失敗(とは言わないかな?)もともと冷え性なんですが、
ここのところの寒波で靴下を重ね履きしてるんです。
更に仕事場の気温が5℃、足元からしんしんと冷えるのでつま先用のカイロを張ったんですが、
一時間たっても暖かくなってこない、それどころかジンジンと痛いくらいに冷えるんです。
なんでや? 昨日はちゃんとぬくたかったで!?

なぜだと思います?
実は、温感靴下だと思って内側に履いてたのが夏用の冷感靴下だったんです。
吸湿冷感ってやつ。
履き替えたらちゃんと暖かかったです(笑)。



さて、今度は尾鷲市から紀北町へとやってきました。

紀北町海山区相賀の日和山山麓下にある「奉石書佛経宝塔」の碑。

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1854年安政東海地震の教訓碑です。

民家の脇の少し高くなったところにあって、探すのに時間がかかってしまいました。
「奉石書佛教寶塔」は読めたんですが、他の碑文はよくわかりませんでした。




紀北町海山区引本浦の吉祥院山門脇にある「津波の碑」。

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写真が少し斜めになってしまいました。
こちらも、1854年安政東海地震の時の様子を記したもの。

碑文は読めませんが、
「安政元年寅六月十四日大地震, 霜月四日朝四ツ時大地震, 直様津浪在中江入, 尚巳前宝永四年亥霜月四日にかく変あり. 後来右の変ある節は早速ニ寺江にげへき事, 依之心得のため此石ふミを建置者也」
「安政元年6月14日大地震、11月4日午前10時頃大地震、直後に津波が押し寄せた、
また宝永4年11月4日にもこのようなことがあった、今後このようなことがあった時には
早急に寺へ逃げること、これを心得とするためこのいしぶみを置くものなり」

と あるそうです。

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紀北町紀伊長島区三浦の三浦漁民センター横堤防脇にある「津波之碑」。

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1944年の昭和東南海地震に関する碑です。



紀北町紀伊長島区長島の仏光寺境内にある津波流死塔。

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右側の碑が、1707年宝永地震津波、
左側の碑が、1854年安政東海地震津波の流死塔。



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「宝永四丁亥十月四日未上刻大地震適ニ津波入在中残流去基上五百余人流死仕候自今後大地震時者覚悟可有事」

「宝永4年丁(ひのと)亥10月4日午後1時40分頃大地震、
津波が押し寄せ、五百人余りが流死した。大地震の時には覚悟するべきである。」


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津波で流されてくる漂着物から山門やお寺を守るために、
地震直後に植えられたという山門前の松の木。



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長島の町にいた河童
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