歴史

地震と津波の記憶を訪ねて 5

今日は朝から予定が狂ってしまいました。
今頃宮川の果てにいるはずだったのに・・・
と、午後3時半ごろ書いてます。

それは明日にして、ブログ更新をすることにします。



国道42号から国道260号に乗り換えて海沿いを走ります。


紀伊長島から更に海辺の町大紀町へとやってきました。



大紀町錦の金蔵寺

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嘉永7(1854年)年11月4日 安政東海地震の「津波流死塔」
「嘉永第七甲寅年霜月四日辰下刻大地震亘, 巳之上刻津波入, 此時弐丈余満. 以後大地震有之節者, 火事津波亦可得心者也」
「嘉永7年11月4日午前9時大地震あり、直後津波が押し寄せる、これ時に6m余り、
以後大地震の際は、家事と津波に心得るべきである。」


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右の石碑が、昭和東南海地震の慰霊碑

大震粛災記念碑
「来襲の時地震 昭和十九年十二月七日
津浪同 日午後一時五十二分
 津浪の高さ 漁業組合市場浜 四米八四
角町五米一五
第二火見櫓五米四五
死者 六十四名
避難所 浅間神杜 錦神杜 忠魂碑
金蔵寺保育所 錦小学校
被害家屋 倒壊流失 四百四十七
半壊 六十五 浸水壱百七十
農地の被害田 四十三反
畑 九十九反 農道一粁
漁具の被害 船四十六隻 破損五十五隻
漁網十七統」
被害状況が詳しく刻まれています。

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境内の桜が咲いていました。



墓地にある「鎮魂の碑」

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鎮魂の碑
 昭和19年12月7日 東南海地震による津波により、六十四名の尊い生命わはじめ、流出家屋四百四十七戸 半壊家屋二百三十五戸、破損船舶百一隻以上という未曽有の災害を被りました。先人たちはこの悲しみにもめげず不屈の尽力により復興されました。先輩諸氏に敬意を表すものであります。
この忌まわしい津波から五十一年の歳月が流れ、地震津波の怖さと尊い犠牲を払われた尊霊の教訓を忘れてはなりません。私たちはこの悲しい体験を子々孫々に語り伝えると共に不測の事態に万全の備えを誓うものであります。
尊霊が永遠に安らかならんことを念じ、紀勢町の平安と繁栄を見守り下さることを祈念します。
                    平成八年十二月七日 建立




錦漁港の堤防の上は 海抜3.6mです。

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漁港の近くにある「平安の碑」

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「私たちは あの日の海を忘れない 海よいつまでも 優しいままでいてほしい」
被害から45年目(平成元年)に子供の像に夢を託して建てられたものだそうです。


錦には、他にも「供養碑」や「潮位指標」があるようですが、場所がよくわかりませんでした。


ここから国道を北上して、南伊勢町へ行きたいと思います。

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コメント

  • noharatsugumi
  • URL

それにしてもたくさんの碑などがありますね。
紀伊半島は東海や南海地震の津波が…
いざという時にどこまで避難したらいいか…
先人たちからのアドバイスになりますね。
大事にしていきたいです。

  • ほしみ
  • URL
noharatsugumi さん

小さなものから大きなものまで、いろいろありました。
紀伊半島は海外からの津波被害も多くて、
東日本前の震災にも、チリやスマトラの津波の被害がありました。
東日本の時には、五ケ所湾で2.5mの津波がありました。

碑文の中には、「お寺」や「神社」まで、とか「食料をもって」とか
詳しく書かれたものもありました。

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