歴史

地震と津波の記憶を訪ねて 6

紀伊長島からR260へまわって、大紀町錦から南伊勢町へやってきました。
いやぁ~ R42を走るとすごく遠いのに、なんと1時間もかからずに到着しました。
交通事情がよくなりましたね~




南伊勢町古和浦の「甘露寺」です。

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宝永4年10月4日(1707年10月28日)宝永地震の慰霊塔、
約9mの津波で、波を受けた民家は一棟も残らず流され、約80人が死亡
今後このような地震が起きたならば、屋上より高い山に登り、決して退いてはならない


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1944年 昭和東南海地震の慰霊碑「津波供養寳塔」
死者23名、家屋の流失121戸、倒壊41戸等


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南伊勢町神前浦の地蔵院

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1944年 昭和東南海地震の津波の犠牲者と、これまでの海難犠牲者の慰霊のために
昭和51年12月7日 昭和東南海地震33回忌の時に建てられた。




南伊勢町贄浦の最明寺

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右側の「大乗經」
「宝永四年丁亥冬十月四日午刻大地震之後高浪振起当浦家不残流出而男女六十人計溺死
也今此経塚之処迄浪到也後来若有大地震老必可知高浪来也為後鑑記焉 為溺死亡霊菩提」

宝永4年(1707年)地震津波 家屋が残らず流失し、死者60名。
この碑まで津波が達し、地震のあとには必ず津波がくる。


左側の「供養塔」
「宝永四年丁亥十月四日有突浪村人溺死者六十人余 今年値一百五十年忌依之拝請隣刹之老翁宿於前浜修大施餓飢以営追福村中善男女亦施浄財助其供養者也
 嘉永七年寅十一月四日己刻大地震又有突浪溺死者三人民家六十余流出破損不知数也. 大地震則有突浪古今相同後人宣知之也
 安政三丙辰十月
  庄屋 西川甚左衛門
  当役肝煎 中村吉良兵衛
  同    楠崎 吉蔵」

宝永4年10月4日(1707年10月28日)地震津波で、当時の村人死者60人余
嘉永7年11月4日(1854年12月23日)地震津波で、死者3人、流失家屋60余戸等の被害

どちらの慰霊碑も、安政三年に建てられたもので、海抜は約7m

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