歴史

地震と津波の記憶を訪ねて 8

またまた寒くなりましたね。
風も冷たいし、これからひと月がまだまだ寒いんですかね?

新型コロナもなかなか落ち着かないし、
いつになったらみんなに会えるようになるんでしょう?
といっても、基本単独行動なんですけど。

人に気を使い、家族に気を使い、そろそろ疲れてきました。
人混みは嫌だけど、パ~っと出かけて行きたい気分です。


津波慰霊碑めぐりもそろそろ大詰め。
あと3回くらいかな?



志摩市からパールロードを使って鳥羽市へ。
今更ながらパールロードって無料になったんですね。


鳥羽市浦村町本浦の清岩庵

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【碑文】
津浪之碑
 嘉永七年卯寅十一月四日 天氣陰惨 卯時地大震
己時滄海潮湧 白浪如山 須臾至前村中央 直衝山腹 入寺門者三寸許 此時民屋[頽]裂 財物盡亡 男女老少只以免死為幸 或構草舎 或苫覆而待震之定 殆一月餘 其辛苦豈可言哉 [諺]日 震動之後海[嘯]必至 今果遭是灾 因記大略以将来者
   安政五戌午年五月
    現住文鳫起
                        


【訳】 安政元年(一八五四年)十一月四日は、天気は暗くて重苦しかった。午前六時頃、大地が大きく揺れ、十時ごろ海の潮がわくように盛り上がり、山のような白波が瞬くうちに、村の前面の真ん中の山を直撃し、三寸ばかり山門に浸水してきた。この時民家は崩れ裂け、家財等はすべて波に洗い去られてしまった。男も女も老少の別なく、やっと死から免れたことは幸いであった。ある者は草葺きの仮屋を構え、ある者は苫(すげ、かやなどで編んだむしろ)を覆って地震の治まるのを待った。その間約一か月余り、その辛さ苦しさは到底言葉では言い表せないものであった。俚諺(俗なことわざ)に「震動の後には必ず津波が来るものだ」と言われてきたが、今現にその通りこのような災難に遭った。そこでそのあらましを書きつけて後世の者たちに教訓として示す次第である。
                          三重の碑百選  より


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左端の電柱の根本から1mほどのところが海抜7m


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お寺の境内はおよそ5m
この境内が三寸(9㎝)ほど浸水しました。

この時の犠牲者はなかったそうです。



鳥羽市国崎(くざき)町の常福寺

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 津波流失塔
維持安政元寅霜月四日五時大地震 [暫]大津波五後四[辺]有之 於當村浪高参間而七丈五尺 之及家数四軒流失 従其崎宮二社流失之 有城山坂森両山打越 数舩并網致流失 濱手田畑荒数ヶ所 流死六人 右為水世此処立置 諸人者見之可有心得事書記畢

(右側面)晳 安政四己年
  施主 當村
  庄屋 藤右エ門
  肝[煎] 三六右エ門
        惣代 忠作
        同  新蔵

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