お天気、安定しませんね。
しばらく晴れていてほしかったんですが・・・
さて、
今回紹介するのは、

佛向山 東禅寺


曹洞宗のお寺です。

六角堂

鐘突き堂 でいいのかな?

収まっているのは「鐘」ではなくて、「太鼓」です。

手水鉢



尾鷲市賀田町が賀田村といっていた昔、(1599年頃)「氏寺旧記」はここから始まる。
雲龍という僧がいたが、慶長時代になると、賀田村の久保に「瑠璃光山長福寺」ができ、住職は秀賀であった。
元和2年(1616年)に小河(こご)へ移って小さな本堂を建てた。
元和2年(1616年)に小河(こご)へ移って小さな本堂を建てた。
慶安2年(1649年)良重和尚の時、寺号を「仏向山東禅寺」と改めた。
万治2年(1659年)寺普請を始め、今の本堂が建立された。その後も普請が続けられたが、延宝元年(1673年)賀田村で大火があり、三十七軒が焼失して賀田村は疲弊した。
貞享二年(1685年)山門を建てようという事になり、材木などを集めたが、思うように進まず、宝永3年(1706年)文嶺和尚の時になって、ようやく立派な山門が建った。
ところが、翌年に宝永の大地震があり、1時間後の津波で、賀田村では浜通りは残さず流され、11人が流死するという大きな被害を受けた。
そのため、寺の周囲を整備する大工工事も大幅に遅れ、そのままになっていた。
万治2年(1659年)寺普請を始め、今の本堂が建立された。その後も普請が続けられたが、延宝元年(1673年)賀田村で大火があり、三十七軒が焼失して賀田村は疲弊した。
貞享二年(1685年)山門を建てようという事になり、材木などを集めたが、思うように進まず、宝永3年(1706年)文嶺和尚の時になって、ようやく立派な山門が建った。
ところが、翌年に宝永の大地震があり、1時間後の津波で、賀田村では浜通りは残さず流され、11人が流死するという大きな被害を受けた。
そのため、寺の周囲を整備する大工工事も大幅に遅れ、そのままになっていた。
このような状態を深く嘆いたのが。東禅寺に毎夜集まって念仏を唱える人たちで、高所の山門へ登る石段や。その周りの石垣を整備した。
こうして、東禅寺は完全に工事が完成し、村の中から見上げると、城のように立派になり、本尊薬師如来がなおありがたく拝された。
こうして、東禅寺は完全に工事が完成し、村の中から見上げると、城のように立派になり、本尊薬師如来がなおありがたく拝された。
「ふるさとの石造物」賀田の東禅寺 より

佛向山 東禅寺 三重梅花百観音 第二十三番霊場
三重県尾鷲市賀田町724
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