三重県の昔話

民話の舞台を訪ねて「五ヶ所浦の牛鬼」

気づかずにいたんですが、先日の草取りであちこち虫に刺されてたみたいで、とてもかゆいです。
少し落ち着きましたが、昨日までは耳たぶがとてもかゆかった。
他にも、いろいろ掻き傷ができてしまって・・・


四連休最終日、実家に用事があったので午後から出かけていました。
用事と言っても30分くらい話をしてきただけなんですが。

帰りに気になっていた城跡に寄ってきました。


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五ヶ所
南北朝時代に南朝方についた愛洲氏が、五ヶ所浦北東の小高い丘の上に築いた城郭。
天正4年(1576年)、北畠氏の攻撃を受け落城、城主の愛洲重明は志摩国迫子(現在の志摩市浜島町迫子)まで逃げた後、自害したと伝えられる。


愛洲氏
清和源氏の武田氏の孫とされるが、その詳細な系譜は明らかでない。
続群書類従では一条忠頼が愛洲氏祖とある。
弘安の役で水軍を率いたとされることから分かるように、海運に関係を持つ氏族で、
後の愛洲移香斎も水軍に加わって各地を旅していたと考えられている。


愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)
室町末期の剣術家で、愛洲陰流の祖。
柳生新陰流やタイ拾流の源となった。



牛鬼伝説

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 むかしむかしのことやけど、五ヶ所浦の切間の谷にひとつのほらあながあってな、ここに牛鬼という変わったものがすんでおったんや。
 牛鬼いうのは、古い本には、毎月、牛一匹を食う鬼やったと書かれておるんやが、
首から上は牛の頭で、人間のようにものを言い、一日に千里も走る神通力を持った強い鬼やったとも言われとるな。

 この牛鬼はよく西山に出てきて、五ヶ所城の殿さんやった愛洲重明公が弓の稽古をするのをながめておったそうや。
重明公は弓自慢やったんやが、ある日のこと、どうしたことか重明公の射た矢が牛鬼に当ってしもてな、矢が胸元に突き立ったもんで、牛鬼は下の畑へ真っさかさまにころげ落ちてしもたということや。

この時、牛鬼はものすごい声をあげてな、その上、真っ黒な煙がもうもうと立ちのぼったのやて。
その煙にまかれた重明公の奥方さんは重い病気になったそうな。養生のために親元の北畠の家へ戻されることになってしもた。
「お願いでございます。どうかここに置いてくださりませ」
と、奥方は言うたんやが、重明公は、
「いやいや、潮風は病にさわる。親元で休むがよい」
と言うて奥方を帰してしもて、あとから離縁を申し送られたんや。
かわいそうに、病気の上に離縁された奥方は、嘆き悲しんで自害してしまわれたんやて。
 むかしのことやもんで、ようわからんけど、別の話では、重明公が病気の奥方に嫌気がさして京都からきた白拍子と仲良うなってしもたもんで、奥方が世をはかなんで自害されたんやとも言われとるな。

ともかく、こんなことになってしもたもんやから、
「病の娘に、なんという仕打ちをするんや。このような非道を許すわけにはいかん」
と、北畠家は怒ってな、軍を起こして戦をしかけたんや。
北畠いうのは、そのころ強い力を持っておった家でな、責められた愛洲一族は、それに勝つことはできんだでな、とうとう滅んでしもたんさ。

 ところで、殿様に射られた牛鬼というのは、もともと五ヶ所城の主やったとも言われておってな、矢に射られて死ぬ時に、
「わしを助けておけば、この城は末長く繁昌(はんじょう)するものを」
と言い残したそうな。
 西山の下の『ウシマロビ』という所は、この牛鬼のころげ落ちた所やと言われとってなあ、牛鬼がすんでおった穴の近くにはある岩は、戸棚のような形をしておるんで、誰言うとなく、牛鬼が武器を隠した道具部屋やと呼ぶようになってな、このあたりの木を切ると災いがあると伝わっておるんさ。


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毎年8月には、五ヶ所城址で、剣祖移香斎を讃えるために、「剣祖祭」がおこなわれ、全国各地各派武術者による武芸奉納が行われる。(コロナ感染拡大のため、今年も中止が決まっています。)

五ヶ所城址(愛洲の館)
三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦2366

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