三重県の昔話

民話の舞台を訪ねて「あごなし地蔵」

雨、止みませんね。
今回、紀伊半島はあまり降りませんが、九州、四国・中国地方心配ですね。
少しでも早く落ち着きますように。


三重県も、ついにコロナ感染者が3桁を超えて、日々最多数を更新しています。
県北部がほとんどではあるんですが、
VISONSもオープンしたし、伊勢や鳥羽は県外からの観光客も増えているようです。

人込みには出かけられませんが、
一人 だ~れもいない、地元の人しか知らないところへ、
長居をせずにだったらいいんじゃない?

と、そんなことを思って、大紀町は七保地区へ、
(本当は、大台町へ行ったんですが、目的地を見つけられなかったので・・・)


歯痛や首から上の病平癒のご利益があるという「あごなし地蔵さん」


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あごなし地蔵は、もともと遠く離れた隠岐の島というところにあったそうです。
そのお地蔵さんが大宮町にやってくることになったのには、こんなお話がありました。


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大宮町の金輪(かなわ)には、あごなし地蔵と呼ばれるお地蔵さんがある。
ここには、こんなお話が残っとるんや。


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むかしむかし、えらいむかしのことや。
 大宮からずーっとずーっと遠く離れた隠岐の島という所に、ひどい歯痛に悩まされておった人がおったんやそうや。
「痛や、痛や」
 次の日になっても
「痛や、痛や」
 三日たっても
「痛や、痛や、ああ痛や」
という具合で、何日たっても痛みが治まらなかったんじゃと。
 歯が痛うて痛うて、夜も寝られん、ものも食えへん。
その人は、あまりの苦しさに自分の下あごをもぎとって死んでしまったんやそうな。
 するとな、驚いたことにその魂が菩薩となって生まれ変わってな。
 それを知った隠岐の人らは、
「痛うて、痛うて、さぞかし苦しかったやろうなあ」
と、この菩薩のために、顎のない木像を造ってやったんやと。


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 それからというもの、人々はその地蔵菩薩さまを手厚くお守りしてな、
「あごなし地蔵さん」と呼んで歯が痛い時には、お祈りするようになったんや。
「あごなし地蔵さん、夕べから歯の痛みがとれませぬ。どうか、治してくだされ」
「歯が痛うてたまりません。助けて下され」
とお祈りすると、ひどい歯痛も治ったんやと。
 そやもんで、村の人はもちろん、遠くからもお参りに来る人が絶えなかったそうや。
もしも、お地蔵さんのおかげで無事に歯痛が治ったときには、川でも湖でも海でもええから、
梨を一ヶ月に一個ずつ、一年間、お礼のために流してやるとな、
その梨は海を渡って隠岐の国に流れていくんじゃと。


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 それから月日は流れてな、今から約百八十年くらい前のことや。
 金輪に林安兵衛(はやしやすべえ)という人物がおって、
この男があごなし地蔵さんを大宮へお招きしよやないかと言い出してな、金輪にあごなし地蔵を建立して供養したと言われとる。

 もうひとつの話では、林安兵衛が隠岐の島よりあごなし地蔵さんを背負うて、大宮の金輪に運んできたとも言われておるんや。
 ともかく、大宮に地蔵さんが来られたのが、天保十年の三月二十四日やったもんで、
以来、毎月二十四日を例祭の日として供養を続けておるんや。
 このあごなし地蔵さんは、特に歯痛や首から上の病気に効くとされておってな、
訪れる人は金輪だけやなしに、よその人々も参拝に来て手を合わせ、無病息災を祈っとるんやって。
                    みえけんHP 伝えたい三重のおはなし
                            大宮町 あごなし地蔵
                                                                          

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この地蔵を刻んだのは、
隠岐へ配流された時に、「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよ海人のつり舟」と
歌を詠んだ小野篁(おののたかむら)であるという。

あごなし地蔵略縁記
隠岐に流された篁は、初め海士町豊田の「金光寺」に身を寄せますが、やがて都万村那久の「光山寺」に移ります。
日々、書をかき彫刻をして過ごすうち、五箇村の「願満寺」から仁王像を彫ってほしいと頼まれます。

そこで、阿古那(あこな)という茶屋の娘と出会いますが、
阿古那は当時、非常に歯痛に悩まされていて、その苦しみは「顎が落ちるほどだ」と聞いた篁は、
阿古那を憐れに思い地蔵尊像を彫り与えました。

阿古那がこれを朝夕と拝み続けるとなんと、今まで苦しめられてきた歯の痛みがうそのようになくなりました。
阿古那は喜び、篁が都万目(つばめ)に来るたびにお茶やそばなどをふるまってねぎらいました。

阿古那は、里一番の美人で器量よしと評判で、やがて二人は結ばれ、子供もできました。
しかし、三年がたったころ、篁は罪を許され都に帰らなくてならなくなりました。
更に、残念なことに、二人の間にできた子は2歳で亡くなってしまいます。
篁は悲しみうちひしがれる阿古那に、亡くなってしまった子を思い、像を彫り、これを渡して都に帰りました。

この時、阿古那が篁からいただいた2体の像が本尊で、千歳の今日まで、歯痛はもちろん、
諸々の難病も信じれば癒え、子宝を願えば、福徳知恵具足の子が授かるとされています。

明治2年の廃仏思想が伝わると地蔵尊堂は焼かれてしまいますが、
火を放った役人が帰るのを待って、井上角四郎という人が燃え盛る本堂へ飛び込み、
この2体の像を助け出し、役人に見つからぬように自宅に隠し祀り、
その後、地元の人たちと力を合わせて、地蔵堂を再建したということです。


ということが、略縁記として書かれています。
これは、隠岐の島の地蔵堂にあるものと全く同じものです。


「あごなし」という名前は阿古那が訛ったとも、我が子「吾子なり」とも言われているそうです。


隠岐島 東光院のHPには 篁が出会ったのは「阿古」という農夫だとあります。
諸説あるようですが、
歯痛に悩まされていた人を救いたいと「篁が彫り与えた地蔵尊」だということは共通しているようです。


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あごなし地蔵
 度会郡大紀町金輪(旧大宮町)
大紀町日本一のふるさと村 隣です。
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コメント

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  • ほしみ
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内緒さん

そうでしたか。
随分走りやすくなりましたよ。

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